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 いつものように仕事をして、そのうちに朝の一件はすっかりめぐみの頭の中から忘れ去られていた。思い出したのは昼休み、たまたま自分のデスクの引き出しを開けたときだった。朝、かなり強引に手渡された封筒は、封も切らずにそのまま引き出しの中に放り込んであった。
 手にとってその封筒を眺める。白い厚手の紙にさりげなく施されてある装飾が、どことなく品のよい高級感を醸し出している。封筒の表にも裏にも差出人の名前はない。手渡しされたのだから、さして不思議と言うことでもなかったが。
 神原櫻子、と名乗ったあの女。この封筒の雰囲気から見ても、どこぞの社長夫人といった態ではあった。
「ふーむ・・・」
思わず考え込んでしまっためぐみに、高杉が声をかけた。めぐみの手の中にある封筒に目を留め、隣の席からそれを覗き込む。
「椎名さん、それって神原グループ会長の誕生日パーティーの招待状じゃないですか?」
「・・・高杉、知ってるの? これ」
新人の相棒へと向き直っためぐみに、高杉は顔を紅くする。こんなことでいちいち赤面していてもしょうがないのだが、今のように突然こちらに向き直られると――やはり慣れない。
「え、あ、はい。これ、神原グループ会長の神原春蔵氏の誕生日を祝うパーティーですよ。確か70歳・・・だったと思います。こんなもの、どうして椎名さんが持ってるんですか?」
高杉の答えからは、その神原なんとか、という老人が今年70歳になるということぐらいしか新しい情報は得られなかったわけだが、なぜ自分がこれを持っているのか、そのことに興味津々な様子の高杉に、めぐみは朝の出来事を話した。
 「その人、確かに『神原櫻子』って名乗ったんですか?」
言い終えためぐみに高杉は訝しげに尋ねる。
「そうだけど?」
高杉の質問の意図が理解できないというように、めぐみは首をかしげた。いきさつを話しながら切った封筒の中身は、やはり件の招待状だった。
「その人が言ったことが本当なら、その人は神原会長夫人の櫻子さんですよ。まだお若い方で・・・」
「うん、若かった。・・・って、70歳の老人の奥さん?」
「はい。一時期ニュースにもなってたみたいですけど? 年の差37歳カップルって・・・」
自分の父親ほど歳の離れた夫婦というものもいない訳ではないのだろうが、めぐみにとってはやはり衝撃ではある。
「で、椎名さん、行くんですか? そのパーティー」
高杉は招待状の内容を眺めながら、問いかけた。パーティーの日付は次の日曜日になっている。いささか――というよりむしろ急すぎる招待である。
「うん・・・最初は迷ったんだけどねぇ。ちょっと気になることもあるし」
めぐみは招待状を軽く指ではじいて、立ち上がった。
「神原さんが言ってたんだけど、高杉もぜひ、って。どうする? 一緒に行く?すごく急な招待だけどさ」
苦笑して何気なく言った台詞に、高杉は首をかくかくと縦に振って、二つ返事で承諾した。来るなと言ってもついてきそうな勢いが、めぐみには不思議で面白かった。最初自分が新人の教育係を務めるという話になったときはどうしたものか、と思ったものだが、なかなか、最近はだいぶ軌道に乗ってきたような感がある。自分の後を一生懸命についてくる後輩というものは、なかなかに可愛いものでもあるのだ。
「よし、じゃぁ次の日曜に。高杉の家まで迎えに行くよ」
「あ、いえ、僕が椎名さんを迎えに行きますから」
「本当? それじゃあ迎えに来てもらおうかな」
「はいっ」
張り切る高杉が微笑ましかった。


 日曜日。
 高杉は車から降りて、ほっと息をついた。物腰の穏やかなドアマンが、丁寧に頭を下げて出迎えた。まだ若い従業員が車を慎重に駐車場へ運転していくのを見送りながら、高杉はめぐみの隣へ歩み寄った。
「ねぇ、高杉。なんかすごくない?テレビで見たことある人ばっかりなんだけど」
「それはそうですよ。なんて言ったって、神原グループの会長の誕生日パーティーですよ?各界の大物が集まるのは当然じゃないですか」
何を今更とでも言うように、高杉はめぐみを見た。その途端、顔がみるまに紅く染まり、視線は宙を泳ぎだした。普段から見慣れている反応だけに、めぐみもそんな高杉にこれといった感想を抱くわけでもなく、自分達を通り越して優雅に建物の中に入っていく、一度は何かで見たことのある人物達を見つめている。そんなめぐみをよそに、高杉は自分でも異常だと思えるほどの心臓の鼓動を抑えることが出来ず、困惑を隠せないでいた。
 めぐみが纏っている深紅のドレスは彼女の身体のラインをくっきりと映している。下品に見えないのは主がそういったことを別段意識していないからだろうと高杉は思った。とにかく、目のやり場に困って――運転中も意識を集中させるのに苦労したのだ、ましてやただ彼女の隣にいる今など言うに及ばないというものである――何か会話の糸口を掴もうと高杉が内心必死になっていた時、助け船が現れた。豪奢な助け船だった。
 「ようこそ、いらして下さいました。椎名さん・・・でしたわね、そちらの方も、お越し頂けて嬉しいですわ。初めまして、私、神原櫻子と申します」
実年齢の割には可愛らしい印象を与える、ふわふわとしたピンクのドレスは、彼女の名に因んだのだろうか、透明感のある桜の花があしらわれていた。
「初めまして、高杉哲と申します」
最初にめぐみと二言三言、言葉を交わし、高杉へ笑顔で握手を求めた櫻子はふとその手を止めた。
「あの・・・なにか・・・?」
「あ、いえ。初めまして、高杉さん。お会いできて嬉しいです」
怪訝そうな高杉の問いかけに、櫻子の表情は一瞬にしてもとの柔らかな笑顔に戻った。黒のタキシードに身を包んだ高杉は、七五三の少年のように見えるかと思ったが、意外と様になっているのに、めぐみは驚いていた。神原グループ会長夫人の挨拶にそつのない応答を返す高杉は、普通縁が無いと思われるような華やかな場面に、よく溶け込んでいて、違和感なく瞳に映った。
「こちらへどうぞ。ご案内いたします」
笑顔のまま右手で促しながら、内へと入ろうとした時、今までは影のように付き添い、その存在感を全くと言っていいほど示さなかった、黒服の女――確か、冴木といったか――が、何かを小さく耳打ちした。
「あら、そう・・・わかりました。すぐ行きます。――ごめんなさい、是非ご一緒させていただきたかったのですけれど・・・あ、そこのあなた、このお二人をご案内して。――せっかくお越しいただいたのに、お構いできなくて申し訳ございません、素敵なイベントも用意してありますので、ごゆっくりとお楽しみ下さいませね」
心底残念そうに言いながらも、近くにいた者へ発せられた言葉は、まさしく命じることに慣れた者の口調そのもので、彼女が一大グループ会長の妻であることを、いやでも思い出させた。
「どうぞ、こちらへ。ご案内致します」
初老の男に導かれて中へと入っていく二人を櫻子はさきほどまでの笑顔も忘れて眺めていた。
「――高杉・・・確かあの人は・・・」
櫻子の言葉に特別意識を向ける者はいなかった。ただ冴木が一瞬怪訝そうに眉を顰めただけだった。

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