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第1章 3
目を開けようとして、あまりの眩しさにかえって強く目を閉じてしまった。
影の一つもない。ただの白。
それが、那智の周りにある唯一のものだった。
「ここは・・・?」
思わず問いを口に乗せても、返ってくる答えはない。上も下も、右も左も、前も後ろも白一色だ。光に包まれていると言ってもいい。自分が立っているのか、寝ているのかもわからなくて、確固たる足場があるのかどうかも疑わしくて、那智はそこから動けずにいた。
手を伸ばしてみる。何かに触れたという感覚は無かった。なんの変化も無い色彩を帯びた空間が、どこまでも広がっているのかもしれなかった。
宇宙。
実際の宇宙もこんな感じなのじゃないかと、ふと思った。はっきりと示された方向も無く、一人宛所も無く彷徨う孤独。確かに、テレビで見る実際の宇宙はこことは正反対の漆黒の闇だったけれど。
記憶をたどって、うっすらと思い出したのは、あの不快な化け物の口の中だった。それから、奇妙な男が声をかけてきたことを思い出す。順々に記憶の糸がほぐれていき、最後に男が言った台詞を思い出した。
「行くぞ」
どこへどう行くというのか、皆目見当もつかなかったが、ここがその目的地なのかもしれない。だとしたら、とんでもないところへ来てしまった。
「いつまで呆けているつもりだ?」
声がして振り返ると、景色は一変して鮮やかな光を帯びていた。心地良い緑の光が木漏れ日だと気付くまでにそれほど時間はかからなかったように思う。
声の調子そのままに不機嫌そうな男が、揶揄するように口を歪めた。
「お前は明るいうちから眠るのか。もともと期待などしていないが、もう少しは賢そうな顔をしてもらおうか。阿呆のように口を開けて、何処を見ている?」
「素顔も見せない人攫いに、いちいち言われる筋合いじゃないわ。だいたい、あんた何者なの? さっきのアレ、なんなわけ? ここはどこ?」
「俺がお前の問いに答えてやらなければならない義理は無い。やつらから無事に逃げられただけ有難いと思え」
男の口調に神経を逆撫でされ、かといって、はっきりと言い返せるだけの材料も見つからなくて、苦し紛れに発した言葉は、案の定と言うか、かわされた。
男に対する腹立たしさを紛らわすつもりで、周囲に目を遣る。森のようだったが、明らかに自分達が立っている所は人の手が入っていると分かる。柔らかい芝が5メートルほどの幅で向こうまで続いていた。ちょっとした小路になっている。男が立っている所と逆の方向には、東屋――だと那智は思った。白い柱が四方を支え、円形のその建物はドーム屋根がどこかの国の寺院のようだった――がひっそりと建っている。小路の真ん中、通りを分断するように建っていて、その向こうがこちら側と同じように緑の小路が続いているのか、それとも森が囲っているのか、こちらからは窺い知ることはできなかった。
時折そよぐ風は碧い香りを運んでくる。少なくともここは、学校の近くではない。こんな所を那智は知らない。
「さっさと来い。お前を待っている方がいる」
言葉の意味を飲み込めないまま、那智は男について歩き出した。
どこまでも続いているかと思われた緑の小路は、5分ほど歩いた所で巨大な建物にぶつかって終わった。先ほどの東屋と同じ仕様の、東屋とは比べ物にならないほどの建造物に、那智は思わず息を呑んだ。
美しい。
純白の建造物は翡翠の陰を映して、輝いている。静寂が支配する回廊が小路の終わりを引き継ぐように、緩やかな曲線を描きながら伸びていた。男は迷わず回廊に足を踏み入れる。繊細な装飾が施された、どれひとつとして狂いの無いアーチが、柱と柱を繋いでいく。光と影を交互に浴びながら進んでいく男の背を、那智は不思議な思いで追って行った。
恐怖、とは違う。帰り道で出遭った、得体の知れない怪物たちに抱いた感情は、いつの間にか消えうせてしまっていた。明らかに普通ではない状況に、次第に慣れていく自分がいる。
男と自分の後をついてくるように、二人の足音が鳴る。床に敷き詰められた白い石は大理石だろうか、つやつやとしていて、どことなく何者をも寄せ付けない厳しさを感じた。
回廊を曲がリきった所で、初めて人の気配を感じた。生成りの衣に緑の上衣をまとったその姿は、こちらの姿に気がつくと、神妙な面持ちで歩み寄ってきた。
「お帰りなさいませ、ヤシロ様。無事のお戻りを心よりお慶び申し上げます。」
深々と頭を垂れるその様子に、那智は男ともう一人の人物を交互に見比べた。身長は那智と同じくらいか、やや低い。短く切った深緑の髪は染めているようには見えなかった。よくよく見ると、その着物には金糸の刺繍が細かく施されている。――文字のようにも見えた。
「ああ。なんとかな。こちらは――変わりないな」
言いかけて、もらした吐息が安堵の声に聞こえて、那智はヤシロと呼ばれた男の顔を改めて眺めた。
艶のある髪は、光の加減か、色素が薄く見えるときがある。琥珀とも、褐色ともつかぬその色は、不思議な印象を強くしていた。
「それにしても――」
緑の髪の人物が嶮のある瞳で男を見返している。
「その、お召し物は一体なんなのですか」
見慣れぬ衣装と、顔に張り付いている黒い物体を見遣りながら、言葉を続けた。
ヤシロの服装はといえば、普通のシャツとパンツのスタイルだ。別に巷で話題の変質者のような格好をしていたわけではない。ただ、サングラスが不釣合いに黒かった。
「あちらで動くためには必要だったんだ。それほど悪いもんじゃない。動きやすいしな。ただ、巧く顔を隠すには、こいつが丁度良かった」
言いながら、サングラスを指差した。
「せめて、謁見の時は御召し替えを。そのままの姿で、お会いになるおつもりですか?」
「あぁ、まぁ…ただ、ご覧になりたいと仰るのでな。あちらのものを。あまり時間も無い」
「ですがっ」
「いいから、お前はもう下がってろ。――ああ、そうだ。あとでお前に話がある。識見の間で待つように」
なおも言い募ろうとするのを無視するように、歩き出す。那智はその後を追うように、唇を噛んだまま立ち尽くす人物の脇をすり抜けようとした。瞬間、目が合った。気のせいだと思うには、険しい視線だった。
「いいの? あの人、まだ何か、言いたそうだったけど・・・」
心持歩く速度を上げながら、ヤシロの前へ回り込む。那智は擦れ違いざまに感じた、敵意のようなものを、この強引な男は絶対に気がついていないに違いないと思った。
「知るか。どうしても言いたいことがあるなら、向こうから言ってくるだろう。とにかく、今はあの方に会うほうが先だ」
「だから、一体、誰に会うって? 何の説明もなしで、何をしたいんだ、あんた」
ただでさえ訳のわからないまま連れて来られて、その上、見ず知らずの人間からあからさまに敵意を向けられ、自然と語調が荒くなる那智を、ヤシロはちらと一瞥しただけだった。
「口を慎め。行くぞ」
那智は溜息の代わりに、後ろを振り返ったが、もう先程の人物の姿はなかった。